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映画「アリスのままで」【感想文・ネタバレあり】

※本記事は学術的内容をまったく含まないいち大学生の映画感想文です。
※多分にネタバレを含みます。未視聴、ダメゼッタイ。
 
風邪でブログネタの本を読めず、代わりと言ってはなんですが
医学・病気関連の映画を見漁っていたので、感想をここに置いていきます〜
 
尊厳とは何か。生きるとは何か。
人格と病を分けることができるのか。

この映画はそうした問いに対し「混沌を突きつける」映画だ。
 
普段わたしたちが人の能力や性格を評価するとき、
 
・そこにはさまざまな条件が変数として関与しているうえに
私たちはそれを(ことさらには)意識せず
・いちど下した評価が時間的に変化しないものであるかのように思う
 
傾向がある。
 
この映画はそれを突き崩し、私たちを断崖へと誘う。例えば
 
・記憶を失っただけで「優秀である」という評価を失い職を退くことになったアリス。
・「日によって違う。普通に振る舞える日もある」という本人の自己評価に反して、アリスは「アルツハイマー病患者」として扱われるという事実。
 
こうした実存的断崖にはだれも立ちたくないものだ。私たちは自分の評価が「全人的」で「揺らがない」アイデンティティであることを望み、かつそのように思考する癖をうまれつきつけられた人間という種族である。
 
しかしここで「アリスは実際には正常な能力をもっていることもあるのに、アリスの取り扱い方そのものがアリスを病気にしている」「この世の全てはむなしい」と断じるのは言い過ぎではないかな、と私は同時に思う。
 
・確実に実行能力を失っていき、何もできなくなるアリスの姿。
・アリスに対して「君は優秀な教師だった」と語りかける夫。
 
アリスの病気は厳然と存在し、症状も進行していくが、そこにアリスを他者とみなして関わろうとするかぎりの「(アリスにとっての)他者」が存在し、「他者」がアリスの人格が解体されないよう必死に語りかけるその限りにおいて、アリスは「アリスのままに」存在する。ではわれわれの人格や能力や性格は、はたしてそれらの「他者の語りかけ」「個人の性質に原因を帰属させる思考の癖」に支えられていないと、どうして断言できるだろうか……そんなことをふと思った。
 
雑感
全体的に「実行機能障害」「人格の変化」といった側面の描きかたがショッキングになりすぎないよう抑制を効かせ、さらに家族の葛藤についても後景に退かせ、アリス個人の「病い」の側面が際立つよう配慮された良作であったと思う。
医学生としては、これらの症状の特徴ががあくまで演出されたものであることは記しておきたい(※症状には個人差があります、的ななにかとだいたい意図は同じだ)けれど、それでも「アルツハイマー病になったいち個人」の描き方としては、かなりよかったんじゃないかなあ、などと思った。
 
追記
詳しい理由は言うとネタバレになるので省くけれど、
この映画が好きな方は「ビューティフル・マインド」もオススメです。
 

ウヴェ・フリック著、小田博志監訳『質的研究入門 〈人間の科学〉のための方法論』改訂版第11章(要約)

ウヴェ・フリック著、小田博志監訳『質的研究入門 〈人間の科学〉のための方法論』改訂版第11章(要約)

サンプリング戦略について。

ちなみに10章 フィールドへのアクセスは以下。
質的研究者の期待とアクセスの問題
開放的なフィールドに入るときの役割の定義
機関/施設へのアクセス
個人へのアクセス
未知性と自明性

フィールドへの参入の仕方により得られるデータが変わること、フィールドへの参入とは「フィールドに自分を位置づけ、また相手から位置づけられる複雑なプロセス(p.137「キーポイント」より引用)」である。

理論的サンプリング
理論的サンプリングは質的研究における代表的サンプリング方法である。理論的サンプリングは統計的サンプリングと対比して理解される(理論的サンプリングが質的研究と、統計的サンプリングと量的サンプリングとがおおむね対応する)。
理論的サンプリングはその実、GTA(グラウンデッド・セオリー・アプローチ)提唱者グレイザー&ストラウスの開発した一手法である。(後述するが、本章では理論的サンプリング以外に2つの手法が補助的に解説されている)

表11.3 理論的サンプリングと統計的サンプリング
理論的サンプリング 統計的サンプリング
基礎的な母集団の範囲が事前に分からない 基礎的な母集団の範囲が事前に分かる
基礎的な母集団の特性が事前に分からない 基礎的な母集団の特徴の分布が予測できる
段階的に基準を定義してサンプリング要素を複数回にわたって引き出す 事前に定義した計画に沿ってサンプルを一度に引き出す
サンプル数は事前に決まっていない サンプル数は事前に決まっている
サンプリングは理論的飽和に至った時に終わる サンプリングは全てのサンプルが調べられた時に終わる
  出典 : Wiedemann 1995: 441


表11.3より筆者改変

理論的飽和
理論的サンプリングのサンプリング終了の基準は「理論的飽和」とよばれる。理論的飽和とは、新しいサンプルを検討しても何も浮かび上がらなくなった状態をいう。

この項には、サンプリングは範囲を選択することと、いつやめるかを決めることが大変だ、みたいなことが述べられていた。(どっちも苦手な私は)読みながら百回くらい頷いていた。わかる、それが大変。

理論的サンプリングにみられる「サンプリングの段階性」(と、その質的研究における一般性)
そう、理論的サンプリングは質的研究におけるサンプリングの一手法でありながら、代表的サンプリング方法ともみなされているのだ。その理由の1つが「サンプリングの段階性」だ、ということなのだろう。

駆け足ですが、次回はリサーチデザインになると思います。

【文献ミニリスト】スペキュラティブ・デザイン

下調べ。

 

design-lab.tuqulore.com
よいまとめ。

10plus1.jp

10plus1.jp

ascii.jp
読む。

 

アンソニー・ダンほか著(2016)『スペキュラティヴ・デザイン 問題解決から、問題提起へ。未来を思索するためにデザインができること』BNN.
読んだ。特にp.023で取り上げられている、スペキュラティヴ・デザインを(市民との対話セッションに取り入れることで)公共政策決定に用いようとするイギリスの試みが興味深い。

 

トーマス・ハウフェ著、藪亨訳(2007)『近代から現代までのデザイン史入門 1750−2000年』晃洋書房.
脇田玲(2009)『デザイン言語入門 モノと情報を結ぶデザインのために知っておきたいこと』慶應義塾大学出版会.
デザイン、デザイン史全般への理解を深めるための本。前者は〜2000年までのデザイン史、後者は近年のデザイン論の基本用語解説(と思われる)。


※この2冊を選ぶにあたって、大阪大学図書館のTA作成リーフレットPaste(ぱすて)「デザインの理論と歴史について調べる」を参考にしました(そこに載っている本から選びました)。ありがとうございました。

ウヴェ・フリック著、小田博志監訳『質的研究入門 〈人間の科学〉のための方法論』旧版第3章(要約)

表象(representation)の危機
・研究者は「ナラティブ」「会話分析」等々といったある形式でしか対象を汲み取れない
・研究者が研究している対象(ナラティブなど)と、実際の対象とは本当に同一なのか?
→表象の危機

ミメーシスとは

・もともとは美学・文学理論
・元の社会→コード化→一致 という考えの否定
・規則の外部にある世界(世界の全体性、透明性?)を否定…規則は世界の「うちに組み込まれて」いる

3つのミメーシス
1のミメーシス
・そもそもナラティブがナラティブとして成立するための前提=ナラティブという形式が人生をrepresentできるという共通了解
2のミメーシス
・人生がナラティブという形式でrepresentされること(ナラティブという形式での提示が既に、解釈と同様の representation である)
3のミメーシス
・ナラティブの解釈というre-re-presentation

繰り返しになるが、これらの規則は世界の「うちに組み込まれて」いる。世界をミメーシスと切り離して論じることはナンセンスであり、世界を論じる際にミメーシスから独立して論じることもまた不可能である。

以上です。次はリサーチクエスチョンの立て方・分類等、いくらか実践的な話になる予定です。

ウヴェ・フリック著、小田博志監訳『質的研究入門 〈人間の科学〉のための方法論』(旧版)第2章(要約)

このメモは旧版の『質的研究入門』に拠っています。

こんかいは触れませんが、第1章の構成は以下です。

第1章
質的研究とは何か−−その意義、歴史、特徴
・質的研究の意義
・量的研究の限界を自覚する
・質的研究の基本的特徴……研究対象に適した方法と理論を用いる、当事者の視点とその多様性、研究者の側の反省(リフレクション)、研究アプローチと方法の多様性
・質的研究の歴史(☆重要)
・研究プロセスに関連づけた質的研究の紹介
・近代の終わりにおける質的研究

個人的には「質的研究のムーブメントは(計量化の過程で失われた質的要素の)ルネッサンスである」という記述(うろ覚えですが)が、なるほど(引き寄せに来てるな)、という感じだった。
(旧い記述というのもあって「質的研究」それ自体の(学問領域内での)政治性、ムーブメント性を感じましたが、まあそんなことはともかく第2章以降をみていきましょう)


第2章 理論的立場

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(表2.1より引用、筆者改変)

これがよいまとめになっている。

まず対象のどの点に着目して記述を行うかによって
・主観的な視点
・社会的現実の構築
・社会的現実の文化的枠付け
の3つに分類し、それぞれについて
・伝統的な理論的背景
・社会科学における近年の発展
・心理学における近年の発展
が1つずつ紹介されている。

 

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(表2.1より引用、筆者改変)

つまりは質的研究における伝統的な理論背景の
・象徴的相互作用論
エスノメソドロジー
構造主義精神分析
がそれぞれ
・主観的な視点
・社会的現実の構築(文中では≒二者の相互作用といわれていた。私もとりあえずそういう理解をしています)
・社会的現実の文化的枠付け(まさに≒(構造主義てきな)構造への視点。主観的視点、二者の相互作用、いずれをも包括する(ところの外部に目を向ける)視点である)
という視点の違いにより分類可能で、

その後の社会科学(社会科学・心理学)の流れをこの3つの視点の違いにより分類したよーというのがこの第2章なのだろう。

それぞれのアプローチについては省略。

共通する特徴について、説明が必要と思うので、要約は以下。


基礎としての現実(リアリティ)構築
主観的な視点も、二者の相互作用への視点も、構造への視点も、(定まった現実がすでにわたしたちに対して現前しているのではなく)ある「行為者(actor)」によって現実が「構成される」(現実とはプロセスである)という理解では共通している。(大まかに言えば、3者の違いは、それ(現実を構成する主要なActor)が何であるかーー主観的な視点であるか、二者の相互作用であるか、構造であるのかの違いだ)

出発点としての事例再構成
「比較や一般化をする前に、個別の事例をある程度の一貫性をもって再構成することである」(p.34)

実証的資料としてのテクスト
対象の内面に迫ったインタビュー録にしろ、会話分析の文字起こしにせよ、構造についての詳細な記述にしろ、質的研究においてテキストベースでの分析は欠かせない。

更新予定(仮)

原稿等が落ち着いたので、少しずつ更新していこうと思います。

 

内容は

・社会調査の方法/質的調査の方法(研究法全般)

・カルテ形式の歴史的変遷についてなにか

・スペキュラティブ・デザイン−−科学者と市民の対話の方法

・リフレクティブ・プロセス−−「語り」でコミュニケーションする

あたりの、どれか、になると思います。

研究の進捗報告も兼ねています。

 

Twitterとちがってごく私的な感じでやってるので、

また訪れられた時の更新になりますが、

何卒よろしくお願いします。

宗教は嫌えばそれで済むってもんじゃない(中村圭志『教養としての宗教入門―基礎から学べる信仰と文化』)

 

 ”宗教とは何か―。信仰、戒律、儀礼に基づく生き方は、私たち日本人にはなじみが薄い。しかし、食事の前後に手を合わせ、知人 と会えばお辞儀する仕草は、外国人の目には宗教的なふるまいに見える。宗教的儀式と文化的慣習の違いは、線引き次第なのである。ユダヤ教キリスト教、イ スラム教から、仏教ヒンドゥー教、そして儒教道教神道まで。世界の八つの宗教をテーマで切り分ける、新しい宗教ガイド。”

Amazon商品紹介ページより引用)

++++++

私たちはよく「インテリジェント・デザイン」や「エホバの証人事件」などを見て宗教の非科学性(と宗教を信じる人の愚かさ)を笑うが、私たちに根強い「宗教は無意味だ」という思考も一種の根拠の無い(明確な推論に基づかない)思考であり、その意味で一種の信仰とも言えるたぐいのものだ。

ともかく現代日本に生きる私たちは日常的判断はもとより、特に宗教が取り扱うような実存的な次元について、この種の(演繹的でも帰納的でもない)実用的な推論に頼りきっており、かつそれについてほとんど考えを巡らすことがない。日本人はキリスト教仏教といったいわゆる伝統宗教に関する決断を保留することで宗教から遠ざかる一方で、個々のレベルで見ればスピリチュアリズムに傾倒したり新興宗教にハマる人がいたり、あるいは自己啓発本や哲学本のブームは静かに続いていたりと、伝統宗教の文脈をもたない個人レベルでの「実存的な知」の希求は続いているように見える(1。
というわけで、私たちは(まあ新興宗教はこれまでの宗教を元にしてるが)こうした”スピリチュアリティ”の「お手本」「実存的知の宝庫」としての伝統宗教・世界宗教の役割をもっと認識する必要があるのではないだろうか、というのが筆者の主張である(付け加えるなら、伝統宗教のもつ「戒律」「教理」というのも、私たちの社会に数ある理由もない慣習とある種地続きなものとして理解することができるのではないだろうかという提案も、本文の記述全体に通底するところである)。
私たちは、自らのうちのスピリチュアリティを自覚することで伝統宗教の距離の近さを感じるのみならず、自らの社会に目を向けてその慣習の不合理性を自覚することで、一見とてつもなく「理不尽」でこわいものにみえる社会の慣習としての世界宗教を、異なる文化の一部として受け止めることが出来るのではないだろうか。

 

……という筆者の主張を織り交ぜながら、宗教一般についての説明(教義、慣習、呪術など)が半分ぐらいにわたって展開されている。とかく非日常で形而上学的と見られがちな宗教だが、日常に引きつける視点を忘れない筆者の解説のおかげですいすい読めた。後半の資料編はキリスト教仏教などの伝統宗教を説明しているのだが、そこの説明もわかりやすい。
総じて通読しやすく面白い本だった。キリスト教の教えってなんとなく気になるけどとっつきづらい……という人や、結局イスラム教って危険なの? という人から、なんとなく異文化を知ってみたいという人まで、是非。

++++++

1)本文では、広くはアニメ・漫画・小説などを通じて、われわれは大量の実存的知を生産・消費していると言える、とまで言及されているのだがこれについては もう説明するより本を読んだほうが早いので省く。このあたりの説明は非常に刺激的で面白かったので興味を持った方は是非読んでみてほしい。