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宗教は嫌えばそれで済むってもんじゃない(中村圭志『教養としての宗教入門―基礎から学べる信仰と文化』)

 

 ”宗教とは何か―。信仰、戒律、儀礼に基づく生き方は、私たち日本人にはなじみが薄い。しかし、食事の前後に手を合わせ、知人 と会えばお辞儀する仕草は、外国人の目には宗教的なふるまいに見える。宗教的儀式と文化的慣習の違いは、線引き次第なのである。ユダヤ教キリスト教、イ スラム教から、仏教ヒンドゥー教、そして儒教道教神道まで。世界の八つの宗教をテーマで切り分ける、新しい宗教ガイド。”

Amazon商品紹介ページより引用)

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私たちはよく「インテリジェント・デザイン」や「エホバの証人事件」などを見て宗教の非科学性(と宗教を信じる人の愚かさ)を笑うが、私たちに根強い「宗教は無意味だ」という思考も一種の根拠の無い(明確な推論に基づかない)思考であり、その意味で一種の信仰とも言えるたぐいのものだ。

ともかく現代日本に生きる私たちは日常的判断はもとより、特に宗教が取り扱うような実存的な次元について、この種の(演繹的でも帰納的でもない)実用的な推論に頼りきっており、かつそれについてほとんど考えを巡らすことがない。日本人はキリスト教仏教といったいわゆる伝統宗教に関する決断を保留することで宗教から遠ざかる一方で、個々のレベルで見ればスピリチュアリズムに傾倒したり新興宗教にハマる人がいたり、あるいは自己啓発本や哲学本のブームは静かに続いていたりと、伝統宗教の文脈をもたない個人レベルでの「実存的な知」の希求は続いているように見える(1。
というわけで、私たちは(まあ新興宗教はこれまでの宗教を元にしてるが)こうした”スピリチュアリティ”の「お手本」「実存的知の宝庫」としての伝統宗教・世界宗教の役割をもっと認識する必要があるのではないだろうか、というのが筆者の主張である(付け加えるなら、伝統宗教のもつ「戒律」「教理」というのも、私たちの社会に数ある理由もない慣習とある種地続きなものとして理解することができるのではないだろうかという提案も、本文の記述全体に通底するところである)。
私たちは、自らのうちのスピリチュアリティを自覚することで伝統宗教の距離の近さを感じるのみならず、自らの社会に目を向けてその慣習の不合理性を自覚することで、一見とてつもなく「理不尽」でこわいものにみえる社会の慣習としての世界宗教を、異なる文化の一部として受け止めることが出来るのではないだろうか。

 

……という筆者の主張を織り交ぜながら、宗教一般についての説明(教義、慣習、呪術など)が半分ぐらいにわたって展開されている。とかく非日常で形而上学的と見られがちな宗教だが、日常に引きつける視点を忘れない筆者の解説のおかげですいすい読めた。後半の資料編はキリスト教仏教などの伝統宗教を説明しているのだが、そこの説明もわかりやすい。
総じて通読しやすく面白い本だった。キリスト教の教えってなんとなく気になるけどとっつきづらい……という人や、結局イスラム教って危険なの? という人から、なんとなく異文化を知ってみたいという人まで、是非。

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1)本文では、広くはアニメ・漫画・小説などを通じて、われわれは大量の実存的知を生産・消費していると言える、とまで言及されているのだがこれについては もう説明するより本を読んだほうが早いので省く。このあたりの説明は非常に刺激的で面白かったので興味を持った方は是非読んでみてほしい。