Emmanuel Delille「制度収蔵資料とエゴ・ドキュメント 精神医学史のインターナル・アプローチとエクスターナル・アプローチの架橋」
ちょっと前に遊びに行った(ほんとに遊びに行っただけですが)学会の特別講演の備忘メモ。
「歴史は資料に基づいて研究することがまず方法論的基礎です。しかし……残念ながら、精神医学史は、英雄譚がただ語られるだけです」
という最強の煽り文句に従って始まった講演ですが、
すごくよかったです。
全体として「閉じこもるな、学際的になれ、協働しろ、資料第一主義に帰れ」という檄を飛ばされた、という感じでした。
ご指摘自体は(お聞きした限り)アクターネットワーク理論半分、フーコーのエピステモロジー論半分…でしょうか(きちんと読み取れているかどうか、自信がまったくありません)。
具体的に主張されていたことは以下。
膨大な資料が日々生まれる中で、「何をどのように保存できるか」という問題
選択が問題になる。アクターの社会文化的表象により選択される。ある資料を保存することはある資料を保存しないことである。
従って歴史家の作業は、単にあるものから歴史的過去を掘り起こすのではなく「精神医学的歴史資料の追悼」という意味を含んでいる
ミシェル・フーコーは、歴史資料の保存の選択における権力・闘争の関係を考える上で有効な補助線になる
ひとつの歴史資料の特徴およびそれを可能にする条件を明らかにすることは、隠されがちな声(とくに患者の声)を明らかにするひとつの方法でもある(精神医学のエピステモロジー的条件の検討!)
です。
特に「ひとつの歴史資料の価値はそれ自体によっては決定されないことを考えれば、歴史資料に根付くならば、歴史家による精神医学史と精神医学家による精神医学史の対立は欺瞞的でしょう」という指摘には頭を殴られるような衝撃がありました。
最後にデジタル・ヒューマニティーズと医療人文学の流れも紹介されていてヨッシャ、という感じ。
まあそんなことより、学会で同い年の人が発表しててそっちのほうが頭をハンマー殴打されるような衝撃だったんですけどね。
こちらもモリモリやるぞ、という所存であります。